プロフィール

投資詐欺で老後資金を失ったアラフィフの新たな挑戦!

はじめましてこころです。
このブログをご覧いただき、ありがとうございます。

私はアラフィフ、医療機関で事務職をしています。
数年前に、職場でのある出来事がきっかけで急性ストレス障害になり、それをきっかけに離婚をすることに…。
さらに、コツコツと貯めた老後資金を投資詐欺で全て失い、定年後の生活が一気に不安になりました。

50代になって、これまでどこか他人事だった定年や老後が現実的になり、「定年後もお金を気にせず、今と同じ生活を保つためにはどうしたらよいのか?」と考えるようになりました。

そんな時、ふと開いたInstagramでリモラボの動画が目に留まり、「場所に縛られずに働く生き方」に興味を引かれ、動画にくぎ付けになりました。
そこで、インスタ運用代行という働きかたに出会いました。

私は、以前から在宅ワークに憧れていたけれど、在宅ワークの方法もわからず「自分には無理だ」とあきらめていました。
でも、今行動しなければ何も変わらない!という思いで、即リモラボへ入会。

私の目標は、定年後も在宅ワークで月収30万円以上を稼ぐことです。

もし、今あなたが

・このままでは定年後の生活が成り立たない
・定年後も今と同じ収入を保ちたい
・でも、どうしたら在宅ワークで稼げるようになるのか分からない

そう思っているのならぜひ、このブログを読んでください。

SNSスキル0のアラフィフが定年後に在宅ワークで月収30万円を本当に稼げるのか?

私は、自分なりの戦略を考え、それを実行していき、その結果をブログで公開していきますので、ぜひ見届けてください。

まずは、自己紹介から。
50年分の人生をギュッと詰め込みました。

少し長くなりますが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

幼少期~中学時代

穏やかな幼少期

北海道で生まれ、明るくて面倒見の良い父と、穏やかで社交的な母、2人の姉。そして、祖父母との7人家族の末っ子として育ちました。

父は教職員、母はパートで働いていて、幼いころの私は自宅で祖母に見守られながら、1日のほとんどを教育テレビを見て過ごしていました。

祖母と静かに過ごす時間が長かったせいか、私は集団の中にいるよりも、ひとりで遊んだりテレビを見ている方が好きな子でした。

この頃の生活が、私の性格の土台になっているのだと思います。

小学校~中学校時代

小学生の頃は、スポーツが得意で、毎日友達と走り回っているような活発なタイプ。

成績は、幼いころに教育テレビを何度も繰り返し見て内容を丸暗記していたこともあり、あまり勉強をしなくても成績は良かったです。

授業参観に来た母は、手を上げっぱなしの私を見て「すごい!この子は優秀な子」と勘違いをして、期待をしてしまします。
その期待に応えようと、生徒会副会長になるなど、みんなの中心にいるような子でした。

しかし、小学校卒業間近に仲の良かったグループの子たちが、私に内緒で遊びに行く計画をしている事を偶然知ってしまいます。
「自分は仲間外れにされたんだ」と気づき、胸が締め付けられました。

それをきっかけに、傷つくのが怖くて
誰にも自分の思っている事、本心を言えなくなりました。

中学生になると、もともと勉強が好きではなかった私は、だんだん授業についていけなくなり、徐々に成績は下がっていきました。
結局、受験勉強もほとんどせず、当然志望校には落ち、誰でも入れる高校に進学しました。

高校~専門学校

高校は商業科に進学。

通っていた高校は当時、1学年16クラスあるマンモス校でしたが、商業科は1クラスだけだったので、3年間クラス替えは無く仲の良いクラスでした。

高校1年生の時に友達に誘われ、レストランでアルバイトを始めます。
そこで働いていた3つ年上の男性、後に旦那さんとなる人と出会いました。
彼は優しく見守ってくれるような人、当時の私にはとても大人に見えて、いつの間にか好きになっていました。

高校を卒業後はIT系の専門学校に進学。
その年にバブルが崩壊。

専門学校を卒業する頃には就職難と言われ始めていた時期で、希望の職種で就職できたのは、成績上位の一部の人だけ。
私は、中の下くらいの成績だったので、試験を受けるチャンスも無く、就職は厳しい状態でした。

20歳~38歳:子育て時代

結婚と出産

専門学校卒業後は1年程事務員としてアルバイトをした後、鉄鋼会社に就職するも、1年もたたずに寿退社。
今で言う授かり婚です。

夫はその頃、私と出会った頃に働いていたレストランは退職して、建築の仕事をしていました。
北海道では冬になると雪の影響もあり、建築の仕事は激減します。そのため夫は冬の間の半年間は毎年、関西に出稼ぎに行きます。

新婚当時は「早く帰ってこないかな」と、雪解けが待ち遠しく思っていました。

そして、長男を出産、その2年後に次男を出産し、ごく普通の幸せな日々を送っていました。

子育て時代

私は専業主婦になっていましたが、
幼少期の穏やかな生活が影響している性格

・人見知りで人との距離を保ちたい
・人混みを避けたい
・家に居たい

このことは変わらず、子供と家で過ごすことがほとんどでした。

しかし、自分の幼少期の事を考えると、子供たちは小さなうちから人との関りを持たせてあげたい。と思うようになり、保育園に行かせるために健康食品会社で事務のパートを始めました。

子供たちが小学校に上がる前にマイホームを建て、引っ越しと同時に調剤薬局に転職。パートで働きました。

長男が小学生になり、初めのころは学校が終わると学童に行っていましたが、「先生が怖いから行きたくない」と半年程で行かなくなりカギっ子になりました。次男も兄と同じように、学童には行きませんでした。

今思えば、私はこの頃から…

・仕事を辞めて家にいたい
・「お帰り」と迎えてあげたい
・子供のそばにいたい

と心の奥底で思っていました。
ですが、家のローンもあり私のパート収入がなくなれば生活はギリギリの状況だったので、働くしかありませんでした。

夫への想い

夫は冬の半年間、毎年出稼ぎに行っていました。家にいる時は毎日仕事が終わると真っすぐ帰宅し、寝るまで晩酌の毎日。
私はお酒が飲めず、完璧主義のA型。いつまでも台所を片付けられないことがストレスに感じていました。
夫が出稼ぎに行っている間は、夕食後すぐに片付け、後はゆっくりと自由な時間なので尚更です。

「お酒飲むなら外で飲めばいいのに…」でも、そんな本音を夫に伝えることもできず、
相変わらず自分の気持ちを押し殺していました。

本当はもっと気持ちを伝えたいのに、言う前に色々と考えてしまって言えなくなってしまう。そんな自分にも嫌気がさして…。

いつの間にか、夫が出稼ぎに行く冬を心のどこかで待ち遠しく思うようになっていました。

39歳~47歳

人生の転機になった転職

長男が高校生になったのをきっかけに医療機関に転職、事務の正社員で働き始めました。
私が配属された部署は、女性の上司・私と同時期に入社したパートさん・そして私の3人体制。

私の前に働いていた人が退職するという事での欠員募集でした。
その人の退職理由は女性上司の「モニターハラスメント」「盗聴ハラスメント」が原因とのこと。
実際には、監視されているかのように常に見られている、他の部署に行っていると様子を見に来る、人と話をしていると近くに来て聞き耳を立てられる。といった具合です。

私は、どんな人でも受け入れることが出来る。という自信があったので、上手くやっていけると思っていました。
ですが、常に視線を感じ、聞き耳を立てられていると、徐々に自分に自信が持てなくなり、気づかないうちに私の心は委縮していきました。
ただ、他の部署の同僚は状況を知っていて、いつも気にかけてくれていたことで救われていました。

この人はこういう人。と受け入れているつもりでしたが、入社して7年目にある事件がきっかけで急性ストレス障害を発症してしまいました。

内部告発

ある日、他部署のSさんが私のところにきて

こう告げられました

・院内の問題について警察、報道機関に話そうと思う
・少なからず、こころさんのいる部署も関係しているので先に伝えておきます
・こころさんには迷惑かけないようにしますから

という内容でした。
私は、「この人何を言っているんだろう???」とあまり深刻に考えていませんでした。

その数日後、Sさんは本当に内部告発を実行したのです。
(Sさんは以前から院内の状況に不満を持っていたと後から聞きました。)

病院には地域のメディアが取材に来たり、警察が来て事情聴取を行ったりと、
院内は一時緊迫した雰囲気になりました。

Sさんは私に、迷惑はかけないようにする。と言いましたが、実際には報道の中で私の部署も取り上げられ、私も状況説明を求められることになりました。

職場での私は、周りの人たちから同情され、気を使われることでかえって周りの目が気になるようになっていました。

止まらない涙

数日後私は、いつものように車に乗り込み職場に向かっていると、突然理由もなく涙が溢れてきました。職場に到着しても涙が止まらず、車から降りることが出来ませんでした。
しばらくして少し落ち着いたところで出勤したものの、更衣室でまた涙が溢れてきて…。
その日から毎朝同じことの繰り返しです。

何とか着替えて仕事につくものの、涙が溢れてきては落ち着くまで更衣室に逃げ込んでいたり、他の部署で話を聞いてもらったり、なぜ涙が流れるのか自分でも理由が分からないんです。

そんな中でも救いだったのは、会社側が私の働く環境に問題があることを認めてくれたことでした。
「働ける範囲でいいからね。」と、そう言ってくれたことに少しホッとしました。

ですが、これまで私は、「人に迷惑をかけないように」との思いから、遅刻、早退、有休も必要最低限で、とにかく仕事第一人間。
そんな自分が、半日会社に居ることが精いっぱいの状態が続いていました。
今のままでは自分が自分じゃなくなってしまう。「このままでは自分はダメになってしまう」と思っていたところ、同僚にもすすめられ、メンタルクリニックに行くことにしました。

そこで診断されたのが急性ストレス障害でした。

急性ストレス障害を克服するには

急性ストレス障害の対処法
・環境を変えた方が良いこと
・できるだけストレスがかからないところに身を置くこと
・気持ちをため込まないで吐き出すこと

という事でした。

ですが、この時点で私は47歳、ニュースや新聞で騒ぎになった病院を退職して再就職をしようにも、雇ってくれるところがあるとは思えませんでした。

私には、このまま時間が過ぎるのを待つしか方法はなかったのです。

48歳~51歳

別れ

この頃、夫との会話はほぼ無くなっていました。

毎日同じ空間にいるだけで、夫は私の異変に気づく事は無く、私も話をする気力もありませんでした。
なので、私が急性ストレス障害と闘っている事を夫は知らなかったのです。

職場でのストレスと、家庭での自分の気持ちを押し殺しているストレスで私は、いつの間にか笑う事が出来なくなっていました。
バラエティ番組を見てみんなが笑っていても私だけ笑えない…。

どうして笑えるんだろう…?

ふと、そう考えている自分に気づき、怖くなりました。
「このまま笑えない人生を送ってもいいのか?」そう考えた時に、「今の生活を変えないと何も変わらない。」という思いが強くなっていき、離婚という決断をすることにしました。
そう決めたからには、あとは自分の気持ちに正直に、前に進むだけでした。

48歳の時に離婚が成立し、私は自分の給料でコツコツ貯めた600万円の資産と100万円の貯金を持って家を出ました。
このお金が、これからの私の支えになるはずでした。

新しい生活

離婚後、環境が変わって少し気持ちに余裕ができたものの、急性ストレス障害を発症してから半年以上がたっても、相変わらず1日のうち数時間しか仕事が出来ない状態が続いていました。

会社も色々と考えてくれて、仕事内容は変えずに、仕事部屋を変えてくれたりしましたが、ふとした瞬間に涙が流れてくる。仕事に集中しようとしても、気づけば涙が溢れてきてしまう。自分でコントロールできないのが、ただただ苦しかった…。

周りは支えてくれるのに、自分だけが前に進めない。
そんな状況が続くと、なぜか「自分が悪いんだ、ダメな人間だ!」とさえ思うようになってきます。

離婚した年、2020年は、世界的にコロナが大流行し、日本でも緊急事態宣言が発令され、多くの会社や学校でリモートワークが導入されていました。
「自宅で働ける人がうらやましいな…」でも、私が働く医療機関でリモートワークは考えられない。会社を辞めても年齢的に再就職は難しい。
環境を変えたくても、どうにもできない日々が続いていました。

そんな時、同じ系列の病院で新しい部署を立ち上げるから事務員としてそこに行かないか?というお話がありました。
仕事内容ががらりと変わり、48歳で0から仕事を覚えなくてはならないという不安はありましたが、メンタルクリニックの先生が言った「環境を変えるのが一番いいんですよ」という言葉が頭をよぎりました。

環境が変われば何かが変わるかもしれない。

私には迷っている余裕はありません。変われるチャンスだと思いました。
「行きます!」即答してしまった…。
だけど本当は、本当に変われるのかな?でも、このままだと何も変わらない。そんな不安と希望が入り混じった気持ちでした。

出勤場所が変わり、覚える事も山のようにあり、必死になって仕事をしていると、気が付けば退勤時間になっていました。
「丸1日仕事が出来た!」
それ以来理由もなく涙が溢れることは無くなりました。

1年続いた苦しみから解放され、やっと新しい生活をスタートする事が出来たのです。

資産が無くなる!?

環境が変わって、何事もなく2年が経ちました。

私は離婚する5年位前から老後のためにと、投資で資産を増やしてきました。
40代半ばで少しづつ老後の生活を考え始めていた時に、知人がやっている投資の話を聞いたことがきっかけで、知人と同じFX投資を始めました。
投資を始めて数年、特に大きな問題もなく運用できていて、資産も700万円まで順調に増えていました。
離婚はしたものの、「このまま順調に資産も増えていけば老後も子供に頼らずに何とかやっていける。」と思っていました。

しかし、50歳を迎えた年、知人から連絡が来て「半年前に出金申請して、すぐに一部だけ出金されたきり、残りがまだ出金されない」という話でした。
まさか!という思いで私もすぐに出金申請をすると、「準備ができ次第、順次出金している。」というメールが来ました。
なんとなく不安を感じましたが、出金されると信じていました。

何の連絡もないまま半年以上たっても動きはありません。それでもまだ信じていました。「きっと遅れているだけだ。」

申請から1年近くがたって、さすがに少し不安になってきて、サポートに問い合わせました。「調べて連絡します」との返事があり、回答が来たのはそれから1カ月後でした。
「申請した金額の一部を銀行に振り込む手配をしたので待っていてください」というような内容の回答でした。しかし、手配したという日付は半年前です。
「・・・これは???」

その頃、私と同じように出金申請しているのに出金されないという人が投資会社を訴えたというニュースが流れました。

そこでやっと「お金は戻ってこないんだ」と確信しました。

その時私は51歳、定年が迫っています。一気に老後の不安が押し寄せてきました。
残ったのは100万円の貯金だけです。

新たな挑戦

このままでは、定年になった後どうなるのだろう。アルバイトするしかないのか?

・家賃、水道光熱費、食費、病院代…アルバイトだと生活が成り立たない。
・子供には迷惑をかけたくない。
・まだまだ子供の世話になる訳にはいかない。

「定年後も今と変わらない生活を保つためにはどうしたらよいのか」
何かいい方法はないだろうか?そんなことばかり考える日々。

そんな時、ふと開いたInstagramでリモラボの動画が目に留まり、「場所に縛られずに働く生き方」に興味を引かれました。
私はコロナ禍に、自宅で働ける人がうらやましかった。
在宅ワークに憧れていたけど「自分には無理だ」と、あきらめていました。

すぐにリモラボの事を調べました。これなら、年齢関係なく働けるのではないか?しかも、憧れていた在宅ワークで!
そして、今私の手元には100万円がある!

今やらなければ絶対後悔する。という思いで、即リモラボへ入会。

51歳から新たな挑戦の始まりです。

おわりに

私の目標は、定年後も在宅ワークで、月収30万円以上を安定して稼ぐことです。

このブログではSNSスキル0のアラフィフがどのような戦略で在宅ワークで月収30万円を目指していくのか、私自身が実験台となって仮説検証し、その結果をリアルにお伝えしていきます。

もしあなたが、私と同じように、定年後の生活に不安を感じているアラフィフでしたら、私の経験を参考に、定年後に月収30万円を手に入れるための一歩を踏み出すきっかけにしてもらえたら嬉しく思います。

時には上手くいかない事もあるかもしれませんが、そのような経験も発信していきますので、その時はぜひ反面教師にしていただいて、自分に合った方法を見つけていただけたら幸いです。

良かったら、私の達成状況をたまにのぞきに来てくださいね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。